koisiitanka’s blog

目にとめたものを写した写真に短歌を添える

何といっても短歌が好き

「私がブログを書く理由」 を書いてみる。

 私は、何といっても短歌が好きだ。そして、日本人みんなが挨拶みたいに短歌を詠むようになったら楽しいだろうと思う。だから、日常使う言葉を使って短歌を詠む。さらに、ブログではそれに写真を添えてイメージを伝えている。同じ一枚の写真を見てもきっと一人一人見方も違い、思いも違い、ああこんな短歌なら私だってできるわと読者さんが思ってくれたら嬉しい。大金かけてハードカバーの歌集を1冊出すよりも、無料のブログで気軽に短歌を発表するのが楽しいし、ブログでは、それを見て気に入った人がいいねマークをつけてくれる。短歌が気に入ったのか、写真が気に入ったのか、それは私にもわからないが、格式張って短歌を詠むよりも気軽に現代の話し言葉で短歌を詠めたらいいな。

 ここ数年のコロナ禍で思い描いていた希望の詰まった学生生活が期待外れだったり、就職してもそこがまた希望のわく生活ではなくて苦しむ若者もいた。若者にとっての3年間は大きい。だからこそ、昨年あたりからSMSなど使って若者が短歌を発表しているのではないか。小説を1編書くよりも、詩を1編書くよりも、短い時間で思いの丈を表現できるのだから。おまけに昨年くらいから、若い方々を中心に短歌は大ブームが続いているので、とても心強い。なぜ短歌が人気かといえば、それはもちろん自分の心を素直に簡単に表現できるから。

 俳句は5/7/7だから、短歌より簡単だと思う人もあるが、季語の縛りがある。しかもそれが難しい。季語一つで春だったり秋だったり、とんでもない間違った季節感になってしまうこともある。ところが短歌にはそんな縛りはない。ただ5/7/5/7/7の7つの音のリズムで詠む(つくる)ことだ。日本には1300年以上前から、和歌の世界から始まって現在の短歌に通じる伝統がある。もっとも以前は和歌には長歌というもっと長いリズムのものも存在し、それに対して短いリズムなので短歌と言われるようになった。

 昔々の万葉集では、天皇や、お偉い役職の方々ばかりではなく、下級役人や、名もない一般庶民の和歌もたくさん載っている。それは当時の人々にすればその時代の普通の言葉を使って自分の心持ちを表現したのだ。旅に出れば、愛するか恋人や家族を想い、その心を歌にする。昔は庶民が行けるようなきちんとした学校はなく、文字を読めない・かけない一般庶民も大勢いた。

 しかし、例えば筑波山の麓に大勢の人が集まり、今でいえば集団見合いみたいなものと思えばよいかな、自分の心持ちを声に出し、5/7/5/7/7の和歌として歌う。それに応えて、また誰かがお返しの歌を5/7/5/7/7の和歌を歌う。それを繰り返すうちに、互いに気の合うカップルも成立するわけだ。日本では現在はこういう風習は途絶えても、研究者によれば中国の奥地などで現在でもおなじような歌によるお見合い的なものは存在する。なんとも、魅力的だ。

 和歌の場合には、伝統的な歌い方が昔はあった。しかしそれを打ち破り現代的な短歌へとしたのが、正岡子規だった。日本に初めて野球が知られてきたとき、それに夢中になったのは正岡子規だった。しかもその野球を短歌にしている。上野の野球場にはそのことが書かれている。

 今年は西暦2023年だが、日本では年号というものある。令和5年である。この年号はこの令和が初めて日本の言葉の中から選ばれた年号である。しかもそれが和歌に関連しているのだから、この時代に生きた証として、さらっと短歌を詠んでみたら格好いいではないか。

 いつも koisiitanka’s blogをごらん頂く皆様ありがとう。できることなら、毎日1首は詠みたいと思っている。ちなみに短歌は1首、2首という風に数えます。短歌を作ることを、短歌を詠む(よむ)といいます。これを知るだけでも、ちょっといいかも。これからもよろしくお願いね。